明石焼きの歴史


2011.10.25

明石焼き

東京などで呼ばれている「明石焼」のことを、地元明石では「玉子焼」といいます(神戸や大阪でも、明石焼と呼ばれています)。全国的には、玉子焼、すなわち明石焼も大阪の「タコ焼」もすべて「タコ焼」と呼ばれているようです。

玉子焼は、だしにつけて

 明石の玉子焼は、小麦粉とじん粉(小麦デンプンのこと)、玉子、タコを使って、銅板の上で焼きます。そして、焼き上がった玉子焼を四角い板の上に乗せ、昆布のつけだしにつけて食べます。
 一方、大阪のタコ焼は、小麦粉にタコ、天かす、紅ショウガなどを入れ、鉄板の上で焼きます。そして、ソースなどをぬって食べます。玉子焼とタコ焼とは、かなり違いがあるのです。

タコ焼のルーツは、玉子焼

 大阪のタコ焼のルーツは、明石の玉子焼にあるといわれています。昭和の初め、大阪にコンニャクなどを入れたラジオ焼というものがありました。このラジオ焼の中に、戦前、タコを入れて商売を始めた人がいました。これがタコ焼の始まりです。
 しかし、何故、ラジオ焼にタコを入れるようになったかといえば、ある大阪のラジオ焼のお店を訪れた客の一人が、「明石ではコンニャクの替わりにタコを入れている」と言ったことがヒントになったと言われています。以来、この店ではタコを入れるようになり、大変繁盛し、戦後あっという間に大阪中にタコ焼の店が出来ました。このため、タコ焼のルーツは明石に、つまり、明石焼にあると言われているのです。この店は現在も大阪で営業されています。

明石焼のルーツは

 次に明石焼のルーツについて考えてみましょう。
 明石焼にも故事来歴があります。一つは、明石の殿様のお菓子を作るのに玉子の黄身だけを使った。すると、残りの白身がもったいないので、これを利用して玉子焼を始めた、というものです。
 もう一つは、江戸時代の末期、天保のころ、鼈甲細工師に江戸屋岩吉という人が居た。ある寒い日にふところに玉子を入れていたら、その玉子が割れ、白身が固まった。鼈甲細工師の彼が、これにヒントを得て作り出したものが「明石玉」。明石玉は玉子の白身を接着剤として、硝石などを固めたもので、珊瑚の替わりとして、かんざしなどに使われた。大変人気を得ていたようで、明治、大正のころの記録を見ると、明石の重要な産業の一つとなっていた。一方、玉子の黄身は副産物として大量に残った。この不用品の黄身と小麦粉、さらに当時からたくさん捕れたタコを活用して出来たものが玉子焼、というものです。

向井さんと玉子焼

 玉子焼のルーツを探っていくと、向井さんの玉子焼に辿り着きます。明石の玉子焼を語る時、向井さんを抜きには語ることはできません。
 作家の椎名麟三も稲垣足穂も、戦前に、この向井さんの玉子焼を食べています。市内の玉子焼専門店やお年寄りに聞いても、必ず登場するのが向井さんの玉子焼です。
 古い書物によると、向井さんは、明治の末に玉子焼を始めました。浜国道の道端に屋台風の玉子焼店を出していました。このころの向井さんの玉子焼は、何もつけず只こんがりと焼いただけのものでしたが、たいそう美味しかったそうです。市内に八雲座という芝居小屋がありましたが、そこへ出演していた都蝶々・南都雄二さんも向井さんの玉子焼を食べ、称賛した、ということです。当時は、1個売りもしており、その場ですぐ食べられるよう、冷ましただし汁で食べていました。
 戦後、大阪から多くの人が、向井さんの店を訪ね、玉子焼の秘伝を聞きに来たそうです。しかし、向井さんは、多くを語らなかったようです。この向井さんも、昭和30年代の末に、90歳近くで亡くなりました。そして、この頃から明石の玉子焼が知られるようになり、玉子焼のお店も増えました。
 向井さんにとっては、少々皮肉な結果になりました。しかし、明石の玉子焼を語る時、また大阪のタコ焼の歴史の中で、向井さんの名前は永遠に不滅です。

たかが玉子焼されど玉子焼

 このような意味で、明石の玉子焼のルーツは、明石玉と向井さんにあると言えます。また、狭い意味(ラジオ焼)でのタコ焼の発生源は、大阪ですが、明石焼も含めた広い意味でのルーツは、明治以降の明石にあると思います。
 今、向井さんの流れをくむ玉子焼店や、逆に大阪のタコ焼の影響を受けた玉子焼店が、明石市内に数十軒あります。また、明石駅周辺には、約20軒の玉子焼店があり、それぞれの味を誇っています。
 たかが玉子焼、されど玉子焼といわれる所以です。

編集 明石観光協会